沿革

 

 概要

 

 開校年月日  昭和9年6月28日

 

昭和 9.6.28 開校式挙行
  35.7.8 プール竣工
  43.11.18 体育館落成式
  45.11.26 言語障害学級開校
  48.6.2 訪問学級開級式
平成 16.10.8 すまいるスクール開校       
  30.9.26 校庭人工芝完成

 

 


 

 

 三井さんのやしきと戸越公園

 

 

戸越公園を中心に戸越小学校、戸越体育館、大崎高校、国文学資料館のあたり一帯は、明治23年から昭和7年まで、三井合名会社社長さんの屋敷でした。元は江戸時代に細川越中守の屋敷として造られたもので、その広い庭は、森や山、谷川や滝などを上手に配置して、まるで東海道五十三次の景色のようにしてありました。

 

 

 学校誕生のころ

 

 

昭和9年6月28日午前10時、待ち望んでいた開校式が校庭で始まりました。児童数は、宮前・大間窪・杜松・大原の4つの小学校から集まった975名でした。

戸越小学校の自然環境がたいへん美しかったことは、開校の日の朝日新聞にも、写真入りで東京一の学校と紹介されたほどでした。

 

 

 校章

 

 

校章は、昭和9年6月28日、戸越小学校開校の日に決められました。初代の校長先生、結解(けっけ)久雄先生が考えて作られたもので、桃の花の中に「戸」を5つ入れて「トゴシ」を表しました。

桃の花は、日本の昔話に出てくる桃太郎を表していますが、これは、戸越小学校の子どもたちはみんな、桃太郎のような「気はやさしくて力持ち」になってほしい、ということなのです。

桃の花をかたどったもう一つの意味は、戸越小学校が、豊かな自然に恵まれた、すばらしい場所にあることから、このことを、中国の昔話にある桃源郷(今のことばで理想郷)にたとえているのです。

 

 

 校歌

 

 

昭和19年になると、開校10周年の記念事業の一つとして校歌が募集されることになりました。集まったいくつかの作品の中から選ばれたのは、そのころ戸越小学校の先生であった内田すみゑ先生の詩でした。作曲は、東京都の音楽の指導主事であった上田友亀先生にお願いしました。

 

 

 戦争のころ

 

 

昭和16年12月には、太平洋戦争が始まりました。大きな戦争で、1年、2年と長引くにつれて、だんだん学校では落ち着いて勉強することができなくなりました。空襲に備えて、防空訓練も行われるようになりました。

昭和19年になると、とうとう空襲が始まってきました。このため、政府は疎開することを盛んにすすめました。いなかに親戚のある子どもはどんどん疎開を始めるようになりました。けれどもたよる親戚のない子どもたちもたくさんいました。そこで、戸越小学校でも、4代目の鏑木徳太郎校長先生と教育奉仕会の田原敏弘会長さんが富山県に出かけ、受け入れについて努力を重ねました。

こうして、第一次の3年生以上は8月28日、第二次の1,2年生は、よく20年の4月に、富山県へ集団疎開をし、7つの寮に分かれて、両親とはなればなれのつらい生活を始めることになりました。

 

 

 戦争が終わって

 

 

昭和20年8月15日、ようやく戦争が終わりました。9月には、焼け残った2棟の校舎で授業が始まり、11月になると、集団疎開していた子どもたちが、富山県から帰ってきました。いなかの親戚などへ疎開していた人たちも町に帰ってきたので、子どもの数もどんどん増えてきました。その上、空襲で校舎を焼かれた大間窪や杜松の子どもたちも同居することになったので、教室が足りなくて、午前と午後に分かれた2部授業や、ひどいときには3部授業も行われました。

昭和22年4月1日、学校の名前が、東京都戸越国民学校から、東京都品川区立戸越小学校へと変わりました。

 

 

 新しい学校

 

 

昭和27年、焼けた南校舎後に6教室の新校舎ができました。

児童数は昭和29年には1200名以上になっていました。そこで、その年にまた2教室が増築され、昭和31年には、さらに2教室が増築されました。

昭和35年7月には、待ちにまったプールが完成しました。

昭和42年に鉄筋3階建て9教室ができ、次の年にさらに3階建て6教室ができ、体育館もできました。

その後、工事が3回に分けて行われ、昭和51年に学校の建物はすべて新しく生まれ変わりました。

 

 

 

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更新日:2023年06月19日 10:37:14